羽根幸浩のS耐日記第12回 ポルシェでレースをやりたい Vol.1
2002年02月20日
今回から2回に渡って、羽根選手がポルシェでレースをしたいと考えるようになった経緯から今に至るまでを綴ってもらうことにした。F3時代は、ミハエル・シューマッハとポールポジション争いを演じ、FIA
GTのフライジンガー時代は、ボブ・ウォレック、ステファン・オルテリなど、ポルシェワークスドライバーと同じチームに在籍するなど、大いなる足跡を残してきた羽根選手。その羽根選手のレース経歴とともに、今回は「ポルシェでレースをやりたい」と思った日のことを振り返る、まずはその1回目。
僕がヨーロッパでレースをすることを真剣に考え出したのは、95年ごろだったと思う。
日本で思うようなマシンに乗れず(自分としてはフォーミュラーがやりたかった)、なんとかGTレースには出ていたものの心そこにあらず。なにかしら目標を失ったような、不安な気持ちになっていた頃。ひょんなきっかけで、フライジンガーからル・マン24時間にエントリーすることになった。経緯は省略するが、ピンチヒッターのF3000スポット参戦と時を同じくして、自分を試すための大きなチャンスだった。失いかけていたモチベーションも一気に上がり、そんなに若くもないので自分の将来を占う上でも一つの節目だったように思う。 F3000の方は、雨のレースで終盤6位まで順位を上げたがリタイアしてしまった。自分のミスでコースアウトしてしまったわけだが、感触的には十分やっていける自信があった。そんな、ある種の自信を持って95年のル・マンに望んだわけだ。
そしてこの1週間が、その後僕をヨーロッパでのレースに誘い出す動機となった。
フライジンガーというチームは、まだ新しく93年頃からインターナショナルレースに参戦し始めた。オーナーも若く、当時は27歳(ぐらいだったと思う)特徴的なのは、ポルシェでしかレースをやらないと言いきっているところで、これもチームの背景を考えると納得させられるものがある。なにせ、西ドイツ最大(世界一だと僕は思う)規模のポルシェ専門ショップを母体としているからだ。この最大規模という言葉は、適切ではないかもしれないが、フライジンガーに行ったことがある人なら誰でも頷くはず。その辺については、また機会があれば紹介しようと思う。
レースである以上、勝つことを目指すのはもちろんのこと。それに加え、彼らはポルシェの中で最速であることにもっともこだわっている。世界的に見ても、ポルシェはレース参加台数が多い車種であるため、ポルシェの中で最速ということは、大きな勲章でもあるのだ。
フライジンガーのマシンの初対面の印象は、このマシンちゃんと走るの? といった感じだった。フライジンガーレーシングチーム自体、僕が日本で見慣れてきたレーシングチームとは明らかに違っていたからだ。
たしかに今考えてみれば、日本の方がマシンを整備することに関しては、ハイテクで繊細さがある。チーム自体の仕事は、明らかに日本の方が優れていると思うし、全体を見渡しても平均レベルは高いと思う。
しかし、僕が関心を持ったのはそこで働くドライバーの仕事ぶりだった。
フライジンガーで参戦したル・マンで突きつけられたタイムが物語るように、チームメイトは僕よりも明らかに速く、精神的にも強いことを認めずにはいられない状況だった。それは今まで味わったことのない、屈辱と落胆だった。これも後で気付いたわけだが、ヨーロッパの環境の中で結果を残していこうと思うと、ドライバーは“タフ”でなければやっていけない。ここのところが、日本との一番の差だろう。技術的な面は十分通用するが、どんな苦境に立たされても能力を十分に発揮できる強さ、これがドライバーとして最も要求される資質だと感じることになった。
強くなりたい、心底そのときに思った。そのためには、ヨーロッパでレースをやるしかない。ヨーロッパの環境の中で(ツアーの旅行でなく)レースを戦っていくことが、強くなる一番の近道だと思ったからだ。もっと早く気がついていれば良かった。
F1 ほどではないかもしれないが、世界で通用するということは少なからずそういうことだと思う。今までの僕のレース人生の中で一番足りなかった部分に、やっと気が付いた。あと5年早かったらなんて思うこともあるが、こんな話しをある人にしたら、気がついただけでもマシな方だろう、なんて慰められた。
【85年】本格的なレース活動を開始。鈴鹿FJ1600クラスに参戦。デビューとなった開幕戦を4位で飾り、12戦中優勝1回を含む7回の表彰台にあがる。シリーズ3位。
【88年】“ノバ・エンジニアリング”のF3ワークスドライバーに抜擢される。
【89年】F3チャンピオンチーム“舟木レーシング”に移籍。
【90年】12戦中優勝1回、2位3回、3位3回の7度の表彰台に立つ。シリーズ4位。
同年のF3ユーロマカオでは、ミハエル・シューマッハ、マルティニらと予選トップ争いを演じ、日本人最高位となる3位を獲得。
同年、全日本スポーツカー選手権に“フロムAレーシング”より参戦、ポルシェ962Cをドライブし、スズカ1000km 総合3位
【91年】マカオGP“ギア”レースに参戦。DTMマシン(BMW、BENZ)を相手に総合6位入賞。
【92年】全日本Gr-A選手権に参戦(スカイラインGT-R)
【93年】全日本Gr-A選手権で初優勝。ポールポジション2回、3度の表彰台。
【94年】十勝24時間レースで“ユニシアジェックスGT-R”をドライブ。ポールポジションからスタートし総合優勝。
【95年】全日本GT選手権にポルシェGT2で参戦。
同年、ル・マン24時間にドイツの“フライジンガー・モータースポーツ”より参戦。GT1クラスのポルシェをドライブし完走16位。
同年、BPRヨーロッパGT選手権に993GT1で参戦。総合5位。
同年、シオノギチーム・ノバより全日本F3000参戦。
【96年】デイトナ24にポルシェ993GTS-1で参戦。
“スリム・ビューティー ・セルモ”より“フォーミュラーニッポン”フル参戦。
BPRヨーロッパGT選手権“ニュルブルクリンク”“ZUHAI”にポルシェで参戦。
【97年】十勝24時間レースにGT300クラスのポルシェで参戦。クラス優勝、総合4位。
【98年】全日本GT選手権に993RSRで参戦。
【99年】FIA GT世界選手権 にドイツ“フライジンガー・モータースポーツ”よりポルシェで参戦。鈴鹿1000km FIAクラス優勝。富士1000kmクラス2位。FIA ZUHAI総合6位。
“00年” FIA GT選手権参戦 第1戦 バレンシア 総合5位。ゾルダー6位、ハンガリー4位、鈴鹿1000kmFIA2位